なんか言う

ちゃんと考えたことやちょっと思っただけのことをしれっといいます

天才

将棋のプロになるためには、各地の猛者が集まる奨励会で段位を上げて、四段に昇段しないといけない。

四段の席を争う三段リーグはつまり、プロの椅子を争う場だが、ご承知の通りこれが過酷

三段リーグを抜けられるのは1期に2人だけ。

誰もが自分の人生を捧げて戦っているが、晴れてプロになる人もいれば、道を絶たれてしまう人もいるということになる。

 

じゃあプロになれなかった人は何でプロになれなかったのだろうか

きっと当事者はこう言うだろう

 

「自分のがんばりが足りなかった」

 

今日はこれが正しいかどうか ともに検討しようじゃないか

 

自分がもっと頑張れば、プロになれたというのは、その人にとってだけの真実だ

 

今回は少し視野を広げよう

 

プロはとっても将棋が強い。なんで強いかというと、100人の人の中から将棋が強い人を2人選んで、その2人を集めて100人グループをつくってその中から将棋が強い人を2人選んでその2人を集めて100にグループを… みたいなことを何回も繰り返して選んだからだ。

 

三段リーグからプロになれなかったのは、がんばれなかった人じゃなくて

すげえがんばったけど、がんばる才能がありすぎる人ランキングで言ったら惜しくもプロ圏外だった人と考えられんだろうか。(運とかいろいろもあるだろうが)

 

「もう少しでプロになれた人」がプロになるためには、代わりに1人の、「惜しくもプロになれなかった人」が必要だ

 

2人のプロの後ろに、その何倍、何十倍の「プロになれなかった人」がいるのではなく、

2人のプロを生み出すために、その何倍、何十倍の「プロになれなかった人」が構造的に必要なのである

 

競争の世界とは、かくも厳しいものかな

 

 

将棋のたとえがわかりにくかった人向けに野球で2行で説明しなおすと

 

大谷翔平の165キロがすごいためには大量のMAX150キロ台が必要、つまり

天才が天才であるためにはそれに準じた才能が平凡と呼ばれる必要があるということ

粛々と積み上げる

はじめは気づかずに積み上げる

 

積み上げるのが当たり前だと思っていた

積み上げるのは難しくなかった

積み上げない子がいることは知っていたけれど、理解していなかった

 

100積み上げた人が集まって、また積み上げ始める

 

積み上げるのは少し難しくなった

自分よりずっと早く簡単に積み上げる人を見た

積み上げるのは少しつらくなった

 

積み上げるのが当たり前じゃないことに気づいた

これは選択だった

でもそれができる自分でいたかったから、少し大変だったけど続けた

まだ、みんなよりうまくできた

1000積み上げた

がんばって、1000、積み上げた

すこしいい景色が見えた

 

 

頂上が見えないくらい高く積んでる人がいた

たくさんいた

 

疲れてしまった

 

 

でも、粛々と積み上げる。

 

 

 

 

 

アルクアラウンド

僕は歩く新しい 夜を待っていた

 

ああ分からん

 

何を手に入れたら自分が幸福かなんて

そんなことは知らん

 

街を歩けば、街にはたくさん人がいるけど

さっきのあのひと、今のこの人が、何して生きてるかなんて知らないし

 

細い路地を歩けば、だれも人はいなくて

知っているあの人や、この人、自分のことを考えるけれど

これから何があってどうなるのか知るわけない

実はどうなりたいかとかどうなるべきかとかも結構分からん

 

周りを見渡したら、うらやましいことたくさんあるから

あれがあっても、これがなくても、僕は満足しないだろう

 

 

けどちょっとだけ、すこしたまに何か話ができたらいいか

なるべく小さな幸せを、なるべくたくさん集めようと、だれか言っていたし。

 

 

正しいこと

「正しいことはなんなのか それがこの胸にわかるまで」

 

生徒時代、間違ったことをしてはいけないという規範と、強いられることの数々に、何が正しいことなのかということは重要な問題だった。

 

子どもは確かに何も知らないが、少しずつ何かを学んでいく。誰だって大人になる前は子どもで、子どもから大人にデジタルに変化したわけではない。

 

少しづつ自分にとって何が正しいのかが確立されてくるとぶち当たる壁がある。まわりの大人との正しさの対立だ。反抗期があるのは自然といわれるゆえんだろう。

 

だが多くを大人に依存する状態で、権力的に抵抗できないこともある。そのとき、自分の正しさを曲げなければいけない。さもなくば大人からの支援を、断ち切る覚悟がなければいけない。

 

こういう葛藤の中で、こんなことを考えてしまう

 

あることが正しかどうか、大人はどれだけ考えたのか。タバコを見て憤慨する大人は、なぜタバコがいけないのか、どれだけ考えたことがあるのだろうか。

 

正しさを問うことによる思考の負担は大きい。慣習、伝統といったものに従うことで、その負担を軽減することができる。

 

それは分かる。

 

だが他人に正しいと思うことを強いる時、相手よりそのことが本当に正しいかどうか、考えたことがなくて、本当にそれでいいのか。

 

マイナスとマイナスをかけたらプラスになるって、話で聞いただけのやつなんか、マイナスとマイナス欠けたらマイナスになるって教えればそう思い込むんだぜ。

それよりはなんでマイナスとマイナスをかけたらプラスになるのか、分からなくて悶えてやっと答えを出したやつの方が、信用できるって思うのが普通だろ。

 

周りでたくさんの人がいけないって言ってるタバコ吸ってるなら、その辺のやつよりもそれが本当にいけないことか真剣に考えてんだろ。

 

タバコなんてけしからんなんて思ってるだけのやつの言葉なんか、聞くに値しなくて当たり前なんじゃないのか。

そのことを子どもよりずっとたくさん考えた親や教師だけが、意味あることを言えるだろ。

 

 どうなんだよ、それでも相手が子どもに見えるってだけで、自分の正しさが押し通せるって思い込み続けれるのかよ。

 

学校の先生が子どもに勉強を教えれるのは、一足先に勉強に向かい合ったからで、

もっとわかりやすく言うなら、生徒がちょっと難しい質問しても答えられるのは、同じ問に向かい合った経験があるから。

 

それと同じように子どもの抱える正しさの問に向かい合ったことがあるわけでもないのに、勉強と同じように自分がなんでも教えられるみたいに思うのは、勘違いなんじゃないの。

 

 

子どもが非行って思うことしてる時に、かけてやる言葉は、「バカヤロウ」とかじゃなくてさ、「なんかあった?」にしてあげてほしいなと 思っているんです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今のうちに大学院専門筆記のコツを書くぞ!!

大学院専門筆記のコツ

 

1、時間当たりの字数に対する感覚

1時間で1000字が上等と分かればその字数を組み立てる作業を練習したらええ

一回文字数オーバーで時間が足りないを経験できたなら、今度から1000字前後に収まる組み立てをという順か

2、1時間に対して10分くらいで論述の計画を作る

具体的なキーワード、事例、論点を頭のストックから可能な限り多くとりだす。

そのなかで一番そこそこのことをそこそこの説得力で言えそうなものを選ぶ。

このとき1テーマでは100字に到達しない場合が多いため、大テーマに対して2つの答え、または1つの答えの二つの理由という要領で2か3分割するのがよい

3、書く

可能な限り詳細に書くことで字数は稼げるため心配は無用。初めの初めに全体の構成について宣言しておいて、前後の文のつながりと段落を意識しながら書ければ十分。

 

以上だ!!

体育会が就職に有利であることにみる部活動の目的の倒錯

私の思う部活動最大の問題は、

態度教育が前面に出て、体罰等の過剰教育がおきやすいこと。

なぜ態度教育が出てくるか。まず学校の態度教育の志向性として

社会という全体のために自己を抑制するという面が強い。

その点部活は学習に比べると集団の一員として活動するという面

が強く、集団(社会)のために自己を抑制する訓練をするのにうって

つけといえるからだろう。

 

部活動は本来はその活動自体が自主的なものとされているから(学習指導要領)、その活動動機は楽しい、自分のためになるといったことに求められるはずだが、実際には教育活動の一部として利用されるがために、集団の達成すべき目標が設定されそのために尽力することの訓練装置化している。

実際に体育会出身者が就職で優遇されることは体育会出身者が企業の構成員として優秀であることを示している、言い換えれば企業社会は体育会的教育機会を通じて学生を使える社員に訓練することを期待している。こうした事実に、部活動が自主的で自己目的的な活動ではなく、集団のなかで集団の目標達成に寄与する能力教育する場に変容していることが見て取れるように思う。