なんか言う

ちゃんと考えたことやちょっと思っただけのことをしれっといいます

正しいこと

「正しいことはなんなのか それがこの胸にわかるまで」

 

生徒時代、間違ったことをしてはいけないという規範と、強いられることの数々に、何が正しいことなのかということは重要な問題だった。

 

子どもは確かに何も知らないが、少しずつ何かを学んでいく。誰だって大人になる前は子どもで、子どもから大人にデジタルに変化したわけではない。

 

少しづつ自分にとって何が正しいのかが確立されてくるとぶち当たる壁がある。まわりの大人との正しさの対立だ。反抗期があるのは自然といわれるゆえんだろう。

 

だが多くを大人に依存する状態で、権力的に抵抗できないこともある。そのとき、自分の正しさを曲げなければいけない。さもなくば大人からの支援を、断ち切る覚悟がなければいけない。

 

こういう葛藤の中で、こんなことを考えてしまう

 

あることが正しかどうか、大人はどれだけ考えたのか。タバコを見て憤慨する大人は、なぜタバコがいけないのか、どれだけ考えたことがあるのだろうか。

 

正しさを問うことによる思考の負担は大きい。慣習、伝統といったものに従うことで、その負担を軽減することができる。

 

それは分かる。

 

だが他人に正しいと思うことを強いる時、相手よりそのことが本当に正しいかどうか、考えたことがなくて、本当にそれでいいのか。

 

マイナスとマイナスをかけたらプラスになるって、話で聞いただけのやつなんか、マイナスとマイナス欠けたらマイナスになるって教えればそう思い込むんだぜ。

それよりはなんでマイナスとマイナスをかけたらプラスになるのか、分からなくて悶えてやっと答えを出したやつの方が、信用できるって思うのが普通だろ。

 

周りでたくさんの人がいけないって言ってるタバコ吸ってるなら、その辺のやつよりもそれが本当にいけないことか真剣に考えてんだろ。

 

タバコなんてけしからんなんて思ってるだけのやつの言葉なんか、聞くに値しなくて当たり前なんじゃないのか。

そのことを子どもよりずっとたくさん考えた親や教師だけが、意味あることを言えるだろ。

 

 どうなんだよ、それでも相手が子どもに見えるってだけで、自分の正しさが押し通せるって思い込み続けれるのかよ。

 

学校の先生が子どもに勉強を教えれるのは、一足先に勉強に向かい合ったからで、

もっとわかりやすく言うなら、生徒がちょっと難しい質問しても答えられるのは、同じ問に向かい合った経験があるから。

 

それと同じように子どもの抱える正しさの問に向かい合ったことがあるわけでもないのに、勉強と同じように自分がなんでも教えられるみたいに思うのは、勘違いなんじゃないの。

 

 

子どもが非行って思うことしてる時に、かけてやる言葉は、「バカヤロウ」とかじゃなくてさ、「なんかあった?」にしてあげてほしいなと 思っているんです。